2018年2月26日月曜日

受領 国司

ずりょう【受領】


〔新任国司が前任者から事務を引き継ぐ意〕
平安中期以降,実際に任地に赴いた国司の最上席のもの。遥任(ようにん)の国司に対する語。任国での徴税権を利用して富を築き,成功(じようごう)・重任(ちようにん)を行なって勢力をもった。じゅりょう。ずろう。
[句]

ず‐りょう〔‐リヤウ〕【受領】


 《前任者から引き継ぎを受けて事務を執る意》平安中期以降、実際に任国に赴任して政務を執った国司の最上席の者。通例は守(かみ)権守(ごんのかみ)。時には、介(すけ)をもいう。じゅりょう。ずろう。→遥任(ようにん)
 院宮公卿に与えられた国司の推挙権。

受領
ずりょう

本義は古代官人社会で交替の際の事務引き継ぎのことであるが、交替事務の重要性において国司の場合が他に勝っていたので、国司の別称となり、国務権限が国司官長(守(かみ)ないし守を欠く場合介(すけ))に集中していくにしたがい、国司官長をさすことばとなった。雑任(ぞうにん)国司の無力化と国司官長による国務の掌握とが決定的となるのが10世紀中葉であり、このころから受領が自己の郎等(ろうとう)らを駆使し、部内に対し旧来の慣行にとらわれることなく、恣意(しい)的な支配を行うようになった。この恣意的支配は、農民に対し過重負担をもたらし、国司苛政(かせい)訟訴とよばれる抵抗運動を引き起こした。989年(永祚1)尾張(おわり)国郡司百姓等解(ひゃくせいらのげ)は、農民らの受領支配に対する不満を示す好個の史料である。受領らは、ほぼ2割前後の増徴を行い、私富を蓄積し、平安京において豪壮な邸宅を構えるなど、栄華を極めた。ただし受領の栄華も摂関期が頂点で、院政期になると在地勢力の台頭により、収益はしだいに減少していった。[森田 悌]

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受領は、古代では国司の別称で、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官があったが、中世には実を伴わない官名として地下人(じげびと)の名誉称号となり、職人や芸能人などの表彰に利用されるようになった。近世に入るとその対象も多種多様にわたったが、なかでは刀鍛冶(かたなかじ)、菓子匠などの職人、浄瑠璃太夫(じょうるりたゆう)・人形操師(あやつりし)などの芸能人で受領する者が多く、のちには主として浄瑠璃関係者に与えられ、官名はもっぱら掾に固定する。大掾・掾・少掾の三階級があり、明治以降は宮家から口宣(くぜん)を受けて掾号を名のった。第二次世界大戦後では、義太夫節(ぎだゆうぶし)の豊竹古靭(とよたけこうつぼ)大夫が1947年(昭和22)に山城少掾(やましろのしょうじょう)を、人形遣いの吉田文五郎(ぶんごろう)が56年に難波掾(なんばのじょう)を受領している。[茂手木潔子]
『吉村茂樹著『国司制度崩壊に関する研究』(1957・東京大学出版会) ▽森田悌著『受領』(1978・教育社)』

こく‐し【国司】

 律令制で、中央から派遣され、諸国の政務をつかさどった地方官。その役所を国衙(こくが)といい、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官のほか、その下に史生(ししょう)などの職員がある。くにのつかさ。国宰。
 特に、国司の長官をいう。

国司
こくし

令制(りょうせい)により、中央から派遣されて諸国の政務を行った地方官の総称。のちには長官のみをさすようになった。大化の地方制度改革の一環として成立し、大宝令(たいほうりょう)の制定によって制度的完成をみた。初期の国司はミコトモチとよばれ、宰、使者などと記された。これに国司の字をあてるのは大宝令施行以後のことである。令制によれば、国の等級に応じて守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四等官(しとうかん)と史生(ししょう)の定数が定められており、その職掌は行財政、司法、軍事など地方政治全般に及んでいた。任期は当初6年、のち4年となったが、任期中は職分田(しきぶんでん)の支給をはじめ、空閑(こかん)地の営種(えいしゅ)権や公廨稲(くがいとう)の配分など、中央官吏にない経済的特典が付与されていたため、律令制の衰退に伴って国司になることが一種の収入源とみなされ、年給(ねんきゅう)、成功(じょうごう)、重任(ちょうにん)、遙任(ようにん)などの制が生じた。
 10世紀以後、律令制支配の動揺と在地構造の変化に対応すべく、かつては郡司(ぐんじ)層以下の有していた権限が国司の手に吸収され、国衙(こくが)支配権が著しく強化された。しかし、郡司、百姓らによる反国衙闘争の激化や中世的所領の形成を契機として、中世的な国衙支配体制としての在庁官人制が成立し、国司は都にあってこれを指揮する、その長官のみをさすようになった。この留守所(るすどころ)制の成立および知行国(ちぎょうこく)制の展開に伴って、国司は荘園(しょうえん)領主的地位を占めることになったといえる。国政上の国司の名称は、中世の荘園制解体後も一種の称号として、明治維新まで存続した。[井上寛司]
『吉村茂樹著『国司制度崩壊に関する研究』(1957・東京大学出版会) ▽坂本賞三著『日本王朝国家体制論』(1972・東京大学出版会)』

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