山田道安
やまだどうあん
戦国時代末~桃山時代の武人画家。大和の筒井氏の一族で,山田順貞,順清,順知の3代にわたって〈道安〉の号を用いたようである。順貞は1573年(天正1),順清は1569年(永禄12)に没している。順清を初代とする記録もあり,作品は初代,2代に多い。《鍾馗図》,《臨済裁松図》(東京芸大)はこの派の豪放かつ枯淡な画風を示す代表作。武人画家による作画は16世紀以降盛んにおこなわれた。禅林という基盤をはなれ,水墨画を中心とした画壇が戦国時代に入って地方豪族の庇護のもとに土着化し,剣禅一致の思想を背景に個性的画風を示した。
[衛藤 駿]
?−1573
戦国-織豊時代の武将,画家。
筒井氏の一族で,大和(やまと)(奈良県)岩掛城主。豪放な水墨画で知られ,彫刻にもすぐれた。永禄(えいろく)10年の松永久秀の焼き討ちにより損壊した東大寺大仏の修復につとめた。天正(てんしょう)元年10月21日死去。名は順貞(としさだ)。通称は民部。
住吉具慶
すみよしぐけい
1631-1705(寛永8-宝永2)
江戸初期の画家。住吉如慶の長男で,名は広澄,通称内記。1674年(延宝2)剃髪して具慶と号し,同年法橋に叙せられる。85年(貞享2)江戸幕府の奥絵師に任ぜられて江戸へ下り,住吉派興隆の基礎を築き,91年(元禄4)法眼に叙せられる。具慶の江戸移住によって,漢画的要素の強い江戸狩野派に対し,伝統的なやまと絵画派が江戸に定着した意義は大きい。代表作には《東照宮縁起絵巻》(如慶と合作),《洛中洛外図巻》などがある。
[安村 敏信]
住吉具慶
すみよしぐけい
一六三一 - 一七〇五
江戸時代前期の住吉派画家。名は初め広純、遅くとも寛文十二年(一六七二)までに広澄と改める。通称は内記。寛永八年(一六三一)住吉如慶の嫡男として京都に生まる。延宝二年(一六七四)妙法院堯恕入道親王の剃刀により得度、法名を具慶とし、六月四日法橋に叙せらる。同五年女院御所造営に際し障壁画を担当、翌六年飛鳥井雅章の孫娘が越前松平家へ輿入れするに際し『徒然草画帖』(東京国立博物館蔵)を制作す。同七年『日光東照宮縁起』(焼失)を完成させて江戸へ持参、その功により将軍徳川家綱より褒美二百両を拝領す。その際逗留先の寛永寺で『元三大師縁起絵巻』『慈眼大師縁起絵巻』(ともに寛永寺蔵)を制作した。同八年禁裏より『年中行事絵巻』の模写、屏風一双の制作を命じられて完成す。天和三年(一六八三)具慶は江戸に召し出されて幕府御用絵師となり、十人扶持を与えられた。貞享二年(一六八五)百俵を加増されて御廊下番となり、道三河岸に屋敷を拝領、奥伺候も許された。元禄二年(一六八九)さらに加増されて二百俵となる。同四年奥医師並となり、十二月二日狩野益信らとともに法眼に叙せられた。同十一年鎌倉河岸に町屋敷を拝領。宝永二年(一七〇五)四月三日七十五歳で没し、京都廬山寺および江戸上野の護国院に葬られた。法名は円竜院前法眼具慶翠雲松巌居士。父如慶の画風をよく守って、住吉派を興隆へ導いた。代表作に前記諸作のほか『宇治拾遺物語絵巻』(重要美術品、出光美術館蔵)、『都鄙図巻』(興福院蔵)、『洛中洛外図巻』(東京国立博物館蔵)などがある。
[参考文献]
サントリー美術館編『江戸のやまと絵―住吉如慶・具慶―』、田島志一編『東洋美術大観』五、松原茂「住吉具慶筆『徒然草画帖』―制作期とその背景―」(『MUSEUM』三八七)、榊原悟「延宝七年『元三大師縁起絵』制作をめぐって」(『古美術』七三)
(河野 元昭)
田中訥言
たなかとつげん
[?―1823]
江戸後期の画家。名古屋に生まれる。名は敏、痴翁・得中・過不及子・求明などと号した。若くして京都に出て土佐派を学んだが、一方、古画の模写に努めて、ついに大和絵(やまとえ)への直接的な復帰を提唱するに至る。したがって復古大和絵派の先駆者となったが、自らは政治的な活動には関与せず、画業に専念した。平等院鳳凰(ほうおう)堂の壁扉絵をはじめ精緻(せいち)な模写が多く残されている。また王朝的な主題を扱った大和絵風の作品や、琳派(りんぱ)の手法を取り入れた『雨中蓮鷺図(うちゅうれんろず)』などの佳品もある。晩年に失明し、失意のうちに自殺したと伝えられる。門人には浮田一蕙(うきたいっけい)、渡辺清がいる。
[加藤悦子]
田中訥言
たなかとつげん
1767-1823(明和4-文政6)
江戸後期の画家。復古大和絵派の祖と呼ばれる。初め応挙の師として知られる石田幽汀(1721-86)に学び,後に土佐光貞(1738-1806)に師事して法橋(ほつきよう)に叙せられた。また1790年(寛政2)新内裏造営,障壁画制作に携っている。佐竹本《三十六歌仙絵巻》などの模写を通じて大和絵の古典を研究し,四条派全盛の上方画壇にあって新鮮な作風を生んだ。師の没後は嗣子光孚(みつざね)の後見役を果たし,名古屋を中心に活躍した。色彩に関する古典研究《色のちくさ》(1818)を著し,その門から浮田一蕙,渡辺清(1778-1861)らが出た。眼病に苦しみ,失明を苦に自殺したとも伝えられる。
[鈴木 広之]