2016年5月5日木曜日

関白 摂政 公卿

摂関政治
せっかんせいじ
平安時代、藤原氏の嫡流が摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を独占し、天皇にかわって、あるいは天皇を補佐して行った政治。とくに967年(康保4)冷泉(れいぜい)天皇の践祚(せんそ)後まもなく藤原実頼(さねより)が関白となってから、1068年(治暦4)後三条(ごさんじょう)天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をさしていう。
[橋本義彦]

成立

皇族が摂政となって政治を行った例は、推古(すいこ)天皇のときの聖徳太子や斉明(さいめい)朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)などにみられるが、臣下として摂政になったのは太政(だいじょう)大臣藤原良房(よしふさ)に始まり(866)、関白はその養嗣子(ようしし)基経(もとつね)に始まる(887)。律令(りつりょう)体制の成立と推進に中心的な役割を果たしてきた藤原氏は、平安時代初頭にはすでに「累代相い承(う)け摂政して絶えず」(日本紀略)との理由で、他氏に優越した地位を認められていたが、ついに人臣摂関の創始によって、政権独占の合法的な根拠を得たのである。
 もっとも摂政も関白も初めから職名として固定したものではなく、ともに執政を意味する同義語で、令(りょう)文に抽象的な規定しかない太政大臣に執政としての職能を付与するのが、当初の摂関の詔(みことのり)の重要なねらいといわれる。また基経の死後、その子忠平(ただひら)が摂政となるまで40年近い空白があり、忠平の死後また約20年間摂関の任命がなく、摂関政治はまだ定着するに至らなかった。しかし967年村上(むらかみ)天皇が崩じ、病弱の冷泉天皇が即位して、忠平の子実頼が関白となってからは、天皇幼少の間は摂政を、成人ののちは関白を置くのが常態となり、摂関の地位、性格もしだいに固まり、さらに986年(寛和2)一条(いちじょう)天皇の摂政藤原兼家(かねいえ)が右大臣辞任後、太政大臣の上席たるべき詔を賜るに及んで、摂関の独自の地位が確立するに至った。
[橋本義彦]

構造

平安後期の藤原頼長(よりなが)がその日記『台記(たいき)』に、「摂政はすなはち天子なり、関白は百官を己(おの)れにすぶるといへども、なほ臣の位に在り」と書いているのは、摂政と関白の制度上の差異を包括的に述べたものである。しかしそれも実際には形式的な面にとどまり、ことに摂関政治のうえでは、摂政も関白も国政の主導的地位にあったことに相違はない。そのうえ摂関は令(りょう)制官職機構を超越した独自の地位を廟堂(びょうどう)に占めた。たとえば摂政・関白の補任(ぶにん)は詔勅によるのを常とするが、その詔勅の効力は各天皇1代に限られ、新帝が引き続いて前朝の摂関を任用する場合には、改めてその意味の詔勅を下す必要があった。これは大臣以下の令制官職と大きく異なるところで、摂関が令制官職機構の枠を越えて、天皇個人に結び付き、それに密着した地位にあることを意味する。一面、摂関の地位の確立に伴い、藤原氏の氏人(うじびと)中官位第一の者がつくべき同氏長者(うじのちょうじゃ)も、摂関が兼帯するようになり、貴族社会に卓絶した勢力を誇る大藤原氏の氏人統率権をあわせもつに至った。
 しかし摂関政治は、律令制にもともと持ち込まれていた貴族制的要素を押し広げる方向に作用したとはいえ、その政治は依然として律令制機構に立脚して行われ、別個の新しい行政機構や組織をつくりだしたわけではない。摂関家の政所(まんどころ)も、家政、氏政を執り行う機関で、その間接的に国政に及ぼした影響は軽視できないが、それが国政機関そのものに転化した徴候は認められない。また摂関政治のもとでは里内裏(さとだいり)が盛行し、里内裏すなわち摂関邸が政治の場となったという説もあるが、この時代ではまだ里内裏の設置は臨時かつ短期間にとどまり、またときには摂関がその邸宅を仮皇居に提供することはあっても、摂関はその間、他所に転居するのが例であるから、里内裏=摂関邸とするのは適切でなく、この面からも、いわゆる政所政治論は成り立たないであろう。
[橋本義彦]

摂関と外戚

こうして摂政・関白は「一(いち)の人」として全廷臣の首位にたち、百官諸司を指揮して国政を領導したのであるが、この地位を根底で支えたのは天皇との外戚(がいせき)関係である。良房が人臣最初の摂政となったのも、良房が藤原氏で初めて在世中に天皇の外祖父の地位を得たことによるところが大きい。また摂関の座が藤原氏北家(ほっけ)のうち、とくに師輔(もろすけ)の九条流に帰したのも、師輔の娘である皇后安子と村上天皇との関係によるところが大きく、道長(みちなが)、頼通(よりみち)の摂関全盛期も、道長の築きあげた外戚体制の所産であることは周知のところである。
 しかし、皇子の誕生とその即位という不確定な要素に依存するこの体制は、いったん運に見放されると、あえなく崩れ去る弱味を内包していた。頼通、教通(のりみち)らの念願もむなしく、その女子に皇子の出産をみることができず、ついに1068年には、外戚関係のない後三条(ごさんじょう)天皇が即位して、摂関の権勢は急速に後退し、院政の時代へと移っていった。そして院政のもとでは、摂関家と競合する外戚家が次々と現れたが、一面、摂関家は、外戚関係の有無にかかわらず、摂関を独占世襲する家柄として自己形成し、その限りでは摂関家の永続的安定をもたらしたのである。
[橋本義彦] 

関白
かんぱく
天皇を補佐し、百官を率いて大政を執行する重職。中国前漢の博陸侯霍光(はくろくこうかくこう)が幼帝を補佐した故事により、博陸ともいう。百官の上奏に関(あずか)り、意見を白(もう)すという意味で、887年(仁和3)宇多(うだ)天皇が太政(だいじょう)大臣藤原基経(もとつね)に賜った勅書にこのことばが初めてみえ、しだいにその職名となった。冷泉(れいぜい)天皇(在位967~969)のころから、天皇幼少の間は摂政(せっしょう)を、成長後は関白を置くのが慣例となり、事実上朝廷最高の地位となって、「一(いち)の人(ひと)」ともよばれた。なお制度上は、摂政が天皇の代理人的立場にあるのに対し、関白は補佐の地位にとどまるが、政治上の実権にはほとんど差異を認められない。
 摂関の職は藤原氏北家(ほっけ)に独占され、藤原氏長者(ちょうじゃ)を兼帯するのが常例となり、ことに藤原道長(みちなが)以後はその子孫に伝えられ、鎌倉時代以降は近衛(このえ)、九条(くじょう)、二条、一条、鷹司(たかつかさ)の五摂家が交互にこの地位についたが、幕末王政復古に際して廃止された。近世初頭豊臣秀吉(とよとみひでよし)・秀次(ひでつぐ)父子が関白になったのはまったくの異例である。なお、前関白を太閤(たいこう)といい、関白に准ずる地位に内覧(ないらん)がある。
[橋本義彦]

摂政
せっしょう
天皇にかわって大政を摂行する重職。摂〓(せつろく)、執柄(しっぺい)などともいう。記紀によれば、応神(おうじん)天皇のときの神功(じんぐう)皇后が初例といわれ、推古(すいこ)朝の聖徳太子をはじめ、古くは皇族がこれに任ぜられたが、866年(貞観8)清和(せいわ)天皇の外祖父太政大臣(だいじょうだいじん)藤原良房(よしふさ)が臣下として初めて摂政の詔(みことのり)を受け、さらに冷泉(れいぜい)天皇(在位967~969)のころから、天皇幼少の間は摂政を、成年後は関白を置くのが慣例となり、朝廷最高の地位として「一(いち)の人」ともよばれた。そして制度上は、関白が天皇の補佐としてなお臣下の地位にとどまったのに対し、摂政は天皇の代理者として、ほとんど天皇に等しいといわれ、詔書に画可(かくか)(本来は天皇が「可」の字を親署する)を加える権限などをもった。良房以降、摂政は藤原氏北家(ほっけ)に伝えられ、藤原氏長者(うじのちょうじゃ)を兼帯するのが例となり、さらに道長(みちなが)以後はその子孫に独占されて江戸時代末に及んだが、王政復古の発令に際して、関白とともに廃止された。
[橋本義彦]

憲法上の摂政

1889年(明治22)の旧憲法(大日本帝国憲法)上、天皇の名において大権(たいけん)を行使する者を摂政といい(17条)、旧皇室典範では、天皇が未成年(18歳未満)もしくは心身上の重患等の際、皇族会議および枢密顧問の議を経て原則として成年の皇族が任ぜられることになっていた(19条以下)。1921年(大正10)大正天皇の重患により、皇太子裕仁(ひろひと)親王(のちの昭和天皇)が摂政に就任したのはこの制度によるものである。
 日本国憲法上は、「摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ」(5条)にすぎない。現皇室典範によれば、摂政は、天皇が未成年(18歳未満)のとき、もしくは心身上の重患または重大な事故の存するとき皇室会議の議によって置かれ(16条)、その在任中訴追されない(21条)。成年に達した皇太子または皇太孫を第一位とする皇族の摂政就任順位が定められている(17条)。
[畑 安次]

太政官
だいじょうかん
律令(りつりょう)官制における中央・地方行政の最高機関。和訓ではオオイマツリゴトノツカサといい、日本独自の官制。しかしそのモデルは唐の最高の行政官庁である尚書省の都省であったため、尚書省・都省・鸞台(らんだい)ともいう。藤原仲麻呂(なかまろ)が官名を唐風に改めたときには乾政(けんせい)官と称した。官制上は神祇(じんぎ)をつかさどる神祇官に対し、行政全般をつかさどるのを任務としたが、実際には神祇官をも統轄下に置いていた。その範疇(はんちゅう)は、狭義には大臣から大納言(だいなごん)(のち令外官(りょうげのかん)である中納言・参議を含む)の議政官をさす例から、広義には八省を含む行政官全体を示す場合まで多様である。しかしその基本は、議政官組織とその秘書、事務局である少納言局、および行政実務の執行機関ともいうべき左右弁官局の3部局から成立しているとみるべきである。その成立時期はさだかではないが、浄御原(きよみはら)令制下にも存在したが大宝(たいほう)令制のそれとは異質であり、官制としては大宝律令で確立した。
 議政官は天皇の諮問に答え、勅や審議決定事項を弁官を通して、太政官符などを通じて執行させた。議政官は令前の大夫(まえつぎみ)制の伝統を引き継いだ有力氏族の代表者たちであり、その合議によって政務は進められたが、基本的には天皇権力を前提にその政治を補完する性格のものであった。9世紀初めに蔵人所(くろうどどころ)が成立してのち、徐々に形式化するが、平安時代でも、陣定(じんのさだめ)(仗議(じょうぎ)ともいい公卿(くぎょう)会議)で各種の政務が審議され、少納言局の政務を引き継いだ外記政(げきせい)や弁官局の政務を引き継いだ官政(かんせい)などでは中納言以上が上卿(しょうけい)として出席するなど、形式は変わるが太政官の機能は生き続けた。武家政権下では公家(くげ)の政務が形式化するに伴い、太政官も形骸(けいがい)化したが幕末まで続き、明治政府の太政官(だじょうかん)制に及んだ。
[佐藤宗諄]
公卿
くぎょう
中国周(しゅう)の官、三公九卿(さんこうきゅうけい)に由来する名辞。上達部(かんだちめ)、卿相(けいしょう)、月卿(げっけい)、棘路(きょくろ)(おどろのみち)ともいう。一般に三公(太師(たいし)、太傅(たいふ)、太保(たいほ))は太政(だいじょう)大臣、左大臣、右大臣に、九卿(少師、少傅、少保、冢宰(ちょうさい)、司徒(しと)、宗伯(そうはく)、司馬(しば)、司寇(しこう)、司空(しくう))は参議、三位(さんみ)以上の高官にあてた。令(りょう)制では官職は大臣、大納言(だいなごん)、位階は従(じゅ)三位以上をさすが、のちには令外(りょうげ)の摂政(せっしょう)、関白、内大臣、中納言、参議をも含み、四位の参議もまたこれに入る。公卿には現任と散位(さんに)との別がある。『公卿補任(ぶにん)』によれば、散位のうち一度でも参議以上になったことのある官人は、前(さきの)大納言、前参議などと書いているが、位は従三位以上でも、参議にもならない官人の場合は、非参議と表現している。758年(天平宝字2)太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫(ぎょしたいふ)と改称したが、藤原仲麻呂(なかまろ)没後の764年に至り、それぞれ旧号に復した。
[渡辺直彦]

太政大臣
だいじょうだいじん
太政官の最高の官職で、日本独自の官。和訓ではオオマツリゴトノオオマエツギミといい、唐名では(大)相国(しょうこく)。令(りょう)では唐の三師(太師、太傅(たいふ)、太保)、三公(太尉(たいい)、司徒、司空)を兼ねる重職とされ、適任者のない場合には欠員とされ、「則闕(そっけつ)の官」といわれた。令文には「天子の道徳の師、四海の民の規範」などと記され具体的な職務が明記されておらず、「非分掌の職」と理解された。その初見は『日本書紀』天智(てんじ)天皇10年(671)正月条で、大友皇子が任ぜられたことがみえるが、これは「百揆(ひゃっき)を統(す)べ、万機を親くす」る、いわゆる摂政(せっしょう)に比すべき地位で、皇位継承予定者の地位をも示し、令制のそれとは大きく異なる。奈良時代には一時期太師(たいし)と改称されたり、藤原仲麻呂(なかまろ)や道鏡がこれに任ぜられたが、一般には名誉的な色彩が濃く、死後に与えられる贈官が原則であった。しかし857年(天安1)2月に藤原良房(よしふさ)が任ぜられた例は、実質上は摂政ともいうべき地位であり、令前の観念が生き続けていたらしい。藤原基経(もとつね)の太政大臣任命に関連して884年(元慶8)5月に諸道博士らに諮問されたが、特筆すべき職掌のない「非分掌の職」という理解が多かった。したがって以降、関白・摂政・内覧などの宣旨を別に受けない限り、太政大臣そのものは名誉職的な官職として生き続け、幕末に至った。維新期には1871年(明治4)に復活し、85年まで存続した。
[佐藤宗諄]

左大臣
さだいじん
(1)令制(りょうせい)太政官(だいじょうかん)の官職で、実質上の長官。右大臣とともに衆務を統理した。三公の一つ。定員は1名で、二位相当官。職田(しきでん)30町、食封(じきふ)2000戸、資人(しじん)200人が給された。その初見は『日本書紀』によれば645年(大化1)に任ぜられた阿倍内麻呂(あべのうちまろ)であり、671年(天智天皇10)には太政大臣など三大臣がそろって任命されたが、制度的に確立したのは701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)によってであろう。官名は、唐の尚書省の左僕射(さぼくや)を倣って、それまでの大臣を左右に分けたことに由来するといわれるが、さだかではない。758~764年(天平宝字2~8)の間は大傅(たいふ)と称された。平安時代にも形式化した太政大臣に比して朝廷政務の責任者としての地位を保持し一上(いちのかみ)とよばれた。その後、武家政権下では名誉的存在であったが、1868年(明治1)に太政官制の廃止とともに廃された。
(2)明治初期の官職。1869年(明治2)7月の官制改革(二官六省)により再置され、71年8月三院八省制のもとでは正院(せいいん)を構成したが、85年に内閣制度が実施されて廃止された。
[佐藤宗諄]

右大臣
うだいじん
(1)令(りょう)制の官職。太政(だいじょう)大臣、左(さ)大臣とともに太政官の中枢を構成。地位は左大臣に次ぐが、その職掌、官位相当とも左大臣と同じで、衆務を統理し、綱目を挙(あ)げ持(と)り、庶事を惣判(そうはん)することを任務とし、二品(にほん)、二位相当官である。『日本書紀』によれば、大化改新での新人事で、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が任ぜられたのが初見である。天智(てんじ)朝には官制として成立していたらしいが、大宝(たいほう)令制との異同は不詳。唐名の大保(たいほ)に比するのが一般的であるが、この官職名は日本独自のもので、その由来については前代の大臣(おおおみ)に関連するとの見方もあるが確証はない。奈良時代には太政官最高位に位置することも多かったが、平安時代に入るとその地位は名目化した。
(2)明治初期の官制。1869年(明治2)、版籍奉還後の太政(だじょう)官制の改革により、左大臣とともに天皇を輔佐(ほさ)する最高官として設けられ、三条実美(さねとみ)が任ぜられた。71年、廃藩置県後の改革で一時廃官されたが、直後に再置され、太政大臣の下に置かれて、左大臣、参議とともに正院を構成し、岩倉具視(ともみ)が任ぜられた。85年内閣制度が成立し、廃された。
[佐藤宗諄]

大納言
だいなごん
令(りょう)制官職の一つ。太政官(だいじょうかん)の次官(すけ)。和名では「おおいものもうすつかさ」と読み、唐名は亜相(あしょう)、門下侍中(もんかじちゅう)、黄門監(こうもんげん)という。定員は4人で、相当位は正三位。その職務は、大臣とともに国政を参議し、天皇に近侍して政務について奏上し、勅命を宣下する要職である。この職は唐では門下侍中の役にあたる。侍中は門下省の長官で、尚書(しょうしょ)省の尚書令(れい)、中書省の中書令と同格であるが、わが国で唐制を採用する際、尚書省に相当する太政官の次官に格下げした。705年(慶雲2)定員2人を減じて、かわりに中納言3人を置いた。その後758年(天平宝字2)官名を御史大夫(ぎょしたいふ)と改めたが、藤原仲麻呂(なかまろ)没後の764年旧に復した。
 明治政府は、1869年(明治2)太政官(だじょうかん)制の官職として左右大臣、参議とともにこれを再置したが、71年廃止した。
[渡辺直彦]

中納言
ちゅうなごん
令外官(りょうげのかん)の一つ。和名では「なかのものもうすつかさ」と読み、唐名では黄門(こうもん)、門下侍郎(もんかじろう)にあてる。『日本書紀』によれば、692年(持統天皇6)に中納言三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)の名がみえ、すでに浄御原(きよみはら)令制下に置かれていたことが知れるが、701年(大宝1)の大宝(たいほう)令施行当日この官を廃止した。705年(慶雲2)大納言2人を減じ、かわりに中納言粟田真人(あわたのまひと)、高向麻呂(たかむくのまろ)、阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)の3人を任じた。その職務は大納言に近く、政務の奏上、勅命の宣下に従事し、朝議にも参与した。また令外官のため相当位はなかったが、このとき正四位上とし、別に封200戸、資人(しじん)30人を支給され、761年(天平宝字5)には従三位(じゅさんみ)相当となった。
[渡辺直彦]

少納言
しょうなごん
令制(りょうせい)官職の一つ。「すないものもうし」とも読む。太政官(だいじょうかん)の少納言局に属し、駅鈴、内印(天皇御璽(ぎょじ)の印)、伝符(でんぷ)(郡馬を徴発する符)、飛駅(ひえき)の函鈴(かんれい)(急を要する場合)を取り扱い、また外印(げいん)(太政官印)を押すときに監督する。定員は3人で、いずれも侍従(じじゅう)を兼ね、地位は低いが重要な職であった。808年(大同3)定員外に1人増加、翌年また1人を追加したが、813年(弘仁4)定員の3人に戻した。
[渡辺直彦]

蔵人所
くろうどどころ
令外官司(りょうげのかんし)の一つ。天皇の家政機関。810年(弘仁1)嵯峨(さが)天皇は初めて殿上(てんじょう)の侍臣を蔵人所に置き、機密の文書などをつかさどらせた。蔵人所の新設は薬子(くすこ)の変と関係があり、平城(へいぜい)上皇方に機密が漏れるのを防ぐため、腹心の藤原冬嗣(ふゆつぐ)、巨勢野足(こせののたり)らを蔵人頭(くろうどのとう)に任命したといわれる。以後、もっぱら天皇に近侍して、詔勅を諸司に伝達し、令制(りょうせい)の内侍(ないし)、中務(なかつかさ)、少納言(しょうなごん)、侍従などの職務にも関与し、殿上の諸事を切り回すようになった。その職員には別当1人、頭2人、蔵人8人、非蔵人4~6人、雑色(ぞうしき)8人、所衆(ところのしゅう)20人、出納(すいのう)3人、小舎人(こどねり)6~12人、滝口(たきぐち)10~30人、鷹飼(たかがい)10人などがある。別当は897年(寛平9)に大納言(だいなごん)藤原時平(ときひら)がなったのが初見。当初は中納言以上の公卿(くぎょう)が任命されているが、のちには一の上(かみ)がなるのが一般である。頭は殿上の諸事を切り回す事実上の担い手で、四位の殿上人をもって任命した。弁官より選ばれたものを頭弁(とうのべん)、近衛次将(このえのじしょう)から選ばれたものを頭中将(とうのちゅうじょう)という。頭は劇務であったが、参議への昇進も早かった。蔵人は888年(仁和4)位階によって分け、五位蔵人2人、六位蔵人6人とした。平安後期には五位3人、六位5人となる。非蔵人は蔵人の事務見習いのようなもの。雑色は非蔵人とともに六位蔵人に進む。所衆は殿上の雑事に従事し、また雑色、小舎人らとともに諸使を勤める。出納は蔵人所から発給する牒(ちょう)、下文(くだしぶみ)などの文書を作成し、署名する。滝口は主として内裏の警護にあたる。
[渡辺直彦]
蔵人所
くろうどどころ
令外官司(りょうげのかんし)の一つ。天皇の家政機関。810年(弘仁1)嵯峨(さが)天皇は初めて殿上(てんじょう)の侍臣を蔵人所に置き、機密の文書などをつかさどらせた。蔵人所の新設は薬子(くすこ)の変と関係があり、平城(へいぜい)上皇方に機密が漏れるのを防ぐため、腹心の藤原冬嗣(ふゆつぐ)、巨勢野足(こせののたり)らを蔵人頭(くろうどのとう)に任命したといわれる。以後、もっぱら天皇に近侍して、詔勅を諸司に伝達し、令制(りょうせい)の内侍(ないし)、中務(なかつかさ)、少納言(しょうなごん)、侍従などの職務にも関与し、殿上の諸事を切り回すようになった。その職員には別当1人、頭2人、蔵人8人、非蔵人4~6人、雑色(ぞうしき)8人、所衆(ところのしゅう)20人、出納(すいのう)3人、小舎人(こどねり)6~12人、滝口(たきぐち)10~30人、鷹飼(たかがい)10人などがある。別当は897年(寛平9)に大納言(だいなごん)藤原時平(ときひら)がなったのが初見。当初は中納言以上の公卿(くぎょう)が任命されているが、のちには一の上(かみ)がなるのが一般である。頭は殿上の諸事を切り回す事実上の担い手で、四位の殿上人をもって任命した。弁官より選ばれたものを頭弁(とうのべん)、近衛次将(このえのじしょう)から選ばれたものを頭中将(とうのちゅうじょう)という。頭は劇務であったが、参議への昇進も早かった。蔵人は888年(仁和4)位階によって分け、五位蔵人2人、六位蔵人6人とした。平安後期には五位3人、六位5人となる。非蔵人は蔵人の事務見習いのようなもの。雑色は非蔵人とともに六位蔵人に進む。所衆は殿上の雑事に従事し、また雑色、小舎人らとともに諸使を勤める。出納は蔵人所から発給する牒(ちょう)、下文(くだしぶみ)などの文書を作成し、署名する。滝口は主として内裏の警護にあたる。
[渡辺直彦]

2016年4月9日土曜日

筑紫館
鴻臚館
佐伯今毛人
水城
白磁の時代
大検校
息浜
大江匡房 12C初
唐房
栄西
首羅山遺跡
薩摩塔
櫛田神社

承天寺 1242
謝国明 
綱首
石築地
鎮西探題
有徳人
石城
神屋家

博多津
円珍
遠野帝
大野城
緑釉陶器
須恵器


息浜

受領

検問自社

平忠盛

神埼荘

藤原頼長

大内義隆
おおうちよしたか
[1507―1551]
戦国末期、山口を本拠とした大内氏嫡統の最後の大名。義興(よしおき)の子。幼名は父と同じく亀童丸(きどうまる)。父の死で家を継ぎ、周防(すおう)、長門(ながと)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、石見(いわみ)、安芸(あき)の守護となる。有職故実(ゆうそくこじつ)を尊重、京都から官務家(かんむけ)小槻伊治(おつきのこれはる)を招いて文書のことにあたらせた。後奈良(ごなら)天皇即位の儀式の資を献上して大宰大弐(だざいのだいに)に任ぜられると、少弐(しょうに)氏を滅ぼして肥前(ひぜん)国を収め、北九州と制海権を掌中にし、東は安芸の武田氏を滅ぼし、備後(びんご)の諸将も従属させた。1542年(天文11)尼子(あまご)氏討伐に山陰へ遠征、翌年大敗してより武事を忘れ文事にふけった。位は従(じゅ)二位に上り、公家(くげ)たちを山口に迎えて厚遇し、京都の学問芸能を移植、朝鮮と明(みん)の高級文物を輸入し、ザビエルの一行に宣教の自由を与え、山口は文化都市として栄えた。その文事と奢侈(しゃし)は陶晴賢(すえはるかた)ら武断派家臣団と領民一般の反感を買い、51年謀反にあい、長門大寧寺(たいねいじ)で切腹して果てた。
[福尾猛市郎] 

勘合貿易
かんごうぼうえき
14世紀末から16世紀に、明(みん)とアジア諸国との間で、勘合船を通じて行われた公式の貿易。勘合船貿易ともいう。明は海禁政策をとって、自国と外国の船の自由な渡航、貿易を禁止し、勘合をもった船のみに貿易を許可した。室町幕府による日明貿易もその一つで、以下のように行われた。
[池上裕子]

貿易の始まり

1401年(応永8)5月、足利義満(あしかがよしみつ)は、祖阿(そあ)を正使、博多商人(はかたしょうにん)肥富(こいつみ)を副使とする使節を明に派遣し、正式の通交を開くよう求めた。このとき義満は、明の皇帝に金1000両、馬10匹など多くの物を献じ、漂流者(実際は倭寇(わこう)に捕らえられた人)を送還した。この使節は翌年明使を伴って帰国、明の国書をもたらした。ついで1403年天竜寺(てんりゅうじ)の堅中圭密(けんちゅうけいみつ)が正使となって入明、その翌年の帰国に明使が同行し、初めて永楽帝(えいらくてい)の勘合と「日本国王之印」と刻した金印を義満に与えた。こうして1410年まで毎年のように遣明船もしくは明船の渡航があり、明船もまた日本で貿易を行った。その後将軍足利義持(よしもち)が明と断交したが、20年余の中断ののち、将軍義教(よしのり)の代に復活。1432年(永享4)、明の帰化僧竜室道淵(りゅうしつどうえん)を正使とする5隻の遣明船が送られた。翌年その帰国に5隻の明船が同行、宣徳(せんとく)の勘合をもたらしたが、明船の来航はこれが最後となった。
[池上裕子]

遣明船の経営

遣明船の経営は幕府、山名(やまな)、大内、細川、斯波(しば)などの守護大名、天竜寺、相国寺(しょうこくじ)、大乗院(だいじょういん)などの寺院が行った。その利益が莫大(ばくだい)なため、1434年に6隻、1451年(宝徳3)に9隻と船数が増加、人数、貿易品ともに増加していったので、明はこれを制限する政策に転じ、以後は10年1貢、船数3、人数300と定めた。このため次の遣明船は幕府船、細川船、大内船の3隻となり、その後7回の遣明船派遣では、大内氏と細川氏がその経営を激しく争った。1523年(大永3)にはついに寧波(ニンポー)で両者が衝突、焼討ち、殺傷事件を起こした(寧波の乱)。1547年(天文16)大内氏は4隻の遣明船を送ったが、これが最後の勘合船(遣明船)となった。遣明船に積み込まれた貨物は寧波で陸揚げされ、国王進貢物、使臣自進物、付搭物(ふとうぶつ)の三つに分けられた。国王進貢物は将軍から明皇帝への献上物で、馬、硫黄(いおう)、瑪瑙(めのう)、太刀(たち)、屏風(びょうぶ)、扇、鎗(やり)などからなる。これに対し皇帝からは絹織物、銀、銅銭などが頒賜(はんし)されたので、実態は朝貢を名目とした貿易であったと評価できる(のち銅銭の頒賜はなくなる)。使臣の自進物も皇帝に献上され、ほぼ同様の扱いを受けた。付搭物は将軍、船を経営する大名や寺院、船に搭乗した客商や従商が積み込んだ商品であるが、その大部分は客商、従商の商品で、それらは公貿易と私貿易の二つの方法で取引された。公貿易は北京(ペキン)で明政府が価格を決定し、明政府との間で取引を行うもので、日本からは硫黄、蘇木(そぼく)、銅、刀剣類、扇などが輸出され、明からは絹織物、生糸、銅銭、陶磁器、書籍、薬材、砂糖などが輸入された。この際、日本側商品の価格は鈔(しょう)(不換紙幣)で決定され、そのうえで銅銭と絹布が支給されることになっていた。しかし明の貿易縮小策や鈔価の著しい下落のため、日本側はこの取引に不満が強く、貨物の一部を持ち帰ったこともある。このため公貿易の割合はしだいに低下し、明側の買入れも刀剣類と硫黄に限られるようになり、逆に私貿易の比率が増した。私貿易は寧波、北京会同館、および寧波―北京間の沿道で、商人との間で行われた。日本からの輸出品、明からの輸入品も公貿易とほぼ同様のものであった。寧波での私貿易は牙行(がこう)(明政府の許可を得た商人)に商品の販売、購入を委託して行われ、また寧波―北京間の道中で、各地の価格差を利用した売買も行われた。公貿易で支給された銅銭は初期にはそのまま持ち帰っていたが、のちには私貿易によってそれを生糸、絹などにかえるようになり、さらには日本から銅銭を持って行って商品を購入するようになった。1432年(永享4)、53年(享徳2)の二度入明した貿易商人の楠葉西忍(くすばさいにん)は、生糸がもっとも利益の多い輸入商品で、明での購入価格の20倍で売れたこと、銅を持って行き、明州・雲州糸にかえると4、5倍に売れたことなどの体験談を大乗院尋尊(じんそん)に語っている。また日本からの輸出品である蘇木や胡椒(こしょう)は南海の産物で、おもに琉球船(りゅうきゅうぶね)で日本に輸入され、再輸出されたものであった。遣明船の経営者は自己の付搭物の貿易による利益のほかに、商人が輸入した貿易品の国内価格の10分の1の抽分銭(ちゅうぶんせん)をとる権利をもっていた。1476、1483年(文明8、15)の場合、堺商人(さかいしょうにん)は抽分銭の納入額を出航前にあらかじめ1隻につき3000~4000貫文で請け負う方法をとっている。これは貿易の利益が莫大であったことを示すもので、遣明船1隻の純利益は1万貫から2万貫ほどと推定されている。
[池上裕子] 

倭寇
わこう
中国・朝鮮の文献にみえる名辞で、本来の意味は、日本人の寇賊(こうぞく)行為ないしその行為をする人物および集団をさすものであるが、実体は時代や地域によって相違し、かならずしも一定してはいない。倭寇の文字が古く用いられた例は高句麗(こうくり)広開土王(こうかいどおう)の碑文にあり、新しい例では日中戦争時の日本軍が中国で20世紀的倭寇とよばれている。なお豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵は万暦(ばんれき)倭寇であった。倭寇とよばれるもののなかで、もっともよく知られているのは、14世紀から15世紀初頭まで朝鮮半島と中国大陸の沿岸で行動したものと、16世紀の後半に中国大陸南岸や南洋方面で行動したものとである。
[田中健夫]

14~15世紀の倭寇

『高麗史(こうらいし)』に倭人が朝鮮半島に寇した記事が初めてみえるのは1223年(貞応2)で、日本側の記録でも1232年(貞永1)に鏡社(かがみしゃ)(佐賀県唐津市)の住人が高麗から珍宝を奪って帰ったと記している。しかし、大規模な倭寇集団の行動が起こるのは1350年(正平5・観応1)以後で、この年以後毎年のように倭寇は朝鮮半島の沿岸を荒らしている。倭寇が略奪の対象としたものの第一は米穀である。租粟(そぞく)を収める漕倉(そうそう)とそれを運搬する漕船(そうせん)がまず攻撃の目標になった。ついで沿岸の住民が第二の略奪対象になった。捕虜にされた高麗人は日本に連れてこられただけでなく、遠く琉球(りゅうきゅう)にまで転売されることもあった。高麗では高官を日本に派遣し、倭寇を禁止するように求めるとともに、日本在住の高麗人捕虜を買って帰国させた。日本から捕虜を高麗に送還すれば相当の対価が支払われた。倭寇の構成員は、日本の名主(みょうしゅ)・荘官(しょうかん)・地頭(じとう)などを中心とする海賊衆、海上の浮浪者群、武装した商人などのほかに、高麗で禾尺(かしゃく)・才人(さいじん)といわれた賤民(せんみん)群が合流することがあった。禾尺は牛馬のと畜や皮革の加工、柳器の製作などに従った集団、才人は仮面芝居や軽業を職とした集団で、伝統的に蔑視(べっし)されていた。
 1392年、王氏の高麗王朝にかわって李(り)氏の朝鮮王朝が成立すると、高麗時代からの外交折衝による倭寇鎮圧策を継承するとともに国防の体制を整備し、新たに倭寇を懐柔する政策を採用した。この政策により、倭寇は朝鮮に投降して官職や衣料、住居などを受けるもの、使人(しじん)や商人として貿易に従うもの、従来どおり海賊行為を続けるものなどに分解変質し、やがて消滅していった。朝鮮側では1419年(応永26)、倭寇の巣窟(そうくつ)ないし通過地とみなした対馬(つしま)の掃討を目的として大軍を対馬に送り込んだ。これが応永(おうえい)の外寇(がいこう)で、朝鮮では己亥東征(きがいとうせい)とよんだ。こののち朝鮮では対馬の宗(そう)氏を優遇して、日本からの渡航者を管理する役目を与え、倭寇再発の防止に備えた。
 朝鮮半島を襲った倭寇は転進して中国大陸に向かい、元(げん)や明(みん)を攻撃した。明の太祖(たいそ)(洪武帝)は海岸の警備を厳重にするとともに、日本の征西将軍懐良親王と折衝して倭寇を防止しようとしたが、成果はあがらなかった。明の成祖(せいそ)(永楽帝)のときになって足利義満(あしかがよしみつ)との間に通交の体制ができ、以後中国大陸の倭寇も鎮静した。
[田中健夫]

16世紀の倭寇

16世紀になり、中国大陸の南岸から南洋方面にかけて、また倭寇とよばれる集団の活動が始まった。もっとも勢力が盛んだったのは1522年(明の嘉靖1年)以後約40年間にわたって行動したもので嘉靖(かせい)大倭寇といわれる。この時期の倭寇の特色は、構成員中に占める日本人の率がきわめて少なく、大部分が中国人であったこと、東アジアの海域に初めて姿を現したポルトガル人も倭寇の同類として扱われたことである。倭寇に捕らえられた中国人が、髪を剃(そ)られてにせの倭寇に仕立てられ、一群に加えられることも珍しくなかった。明では太祖のとき以来、海禁(かいきん)という一種の鎖国政策をとって中国人の海上活動を禁じていたが、経済活動が発達した16世紀ではこの政策の維持が困難となり、海上で密貿易を行うものが激増した。郷紳(きょうしん)、官豪(かんごう)などとよばれた地方の富豪層も密貿易者群と結んでその活動を助長した。ポルトガル人も明から正式の貿易許可が得られなかったので密貿易者となった。そこに日本商船が、当時国内で生産量を急増させていた銀を所持して南下し、合流した。これらの人々は中国の官憲から一括して倭寇とみられたのである。彼らは浙江(せっこう)省の隻嶼(そうしょ)、ついで瀝港(れきこう)を根拠地として盛んな密貿易を行った。この地が中国官憲の攻撃により壊滅すると、彼らは根拠地を日本に移し、中国大陸沿岸に出動して寇掠(こうりゃく)活動を行った。倭寇の集団は分裂・合体を繰り返し、その行動は複雑な様相をみせたが、もっとも有名だったのは王直(おうちょく)である。王直は日本の平戸(ひらど)や五島(ごとう)地方を根拠とし、大船団を組織してしばしば中国の沿岸を侵した。彼は、1543年(天文12)に種子島(たねがしま)に漂着して日本に初めて鉄砲を伝えたという外国船のなかの乗員の1人であり、五峰(ごほう)先生とよばれて尊敬を受けていた。彼は密貿易の調停者としての資格を備えた人物で、密貿易者の交易を保護代行したり、倉庫、売買の斡旋(あっせん)をしたりしたらしい。明では王直一派の掃討に手をやき、帰国すれば罪を許して貿易を許可するとして誘引し、彼が帰国すると投獄、斬首(ざんしゅ)した。
 倭寇に参加した日本人は、鄭若曽(ていじゃくそう)の『籌海図編(ちゅうかいずへん)』によると、薩摩(さつま)、肥後、長門(ながと)の人がもっとも多く、大隅(おおすみ)、筑前(ちくぜん)、日向(ひゅうが)、摂津、播磨(はりま)、紀伊、種子島、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、和泉(いずみ)の人々であったという。船は3~5月ころ五島または薩摩を発し、大小琉球(沖縄、台湾)を経て、江南、広東(カントン)、福建に至ったという。倭寇の残虐行為として類型化して伝えられているのは「縛嬰沃湯(ばくえいようとう)」と「孕婦刳腹(ようふこふく)」である。前者は幼児を柱にくくりつけて熱湯をかけ、その泣き声を聞いて喜ぶというもの。後者は妊婦の腹を裂いて、男女のどちらをはらんでいたかを当てる賭博(とばく)であるという。一方、倭寇が善良な住民に温情を示したという話もなくはなかった。明では胡宗憲(こそうけん)、戚継光(せきけいこう)、兪大猷(ゆだいゆう)らが海防にあたって成果をあげ、1567年には200年にわたった海禁令が緩められ、南海地方との貿易が許されて、倭寇活動は鎮静に向かった。この時代、明では数多くの日本研究書が発表され、中国におけるこれまでの日本認識は一変した。
[田中健夫] 

有徳人
うとくにん
富裕な人のこと。「うとくじん」とも読み、有得人とも書く。有徳の徳は、資財、銭貨、米穀など動産的富をさす。有徳ということばが史料に現れるのは、鎌倉時代からであるが、富裕な人の呼称として定着するのは、室町時代である。当時は普通、有徳人といわれたのは、都市の土倉(どそう)と酒屋に代表される非農業的、非領主的な富裕者で、身分も凡下(ぼんげ)であった。彼らは、荘園(しょうえん)の代官、地主的名主、商人、金融業者、貿易業者など、貨幣経済とともに現れた階層で、商業や高利貸活動はもちろんのこと、幕府、諸大名、さらには公家(くげ)、寺社の財政にまで深く食い込み、また日明(にちみん)・日朝貿易を事実上掌握した。
 室町幕府はその経済的基礎である、直轄領に対する支配権が失われ、年貢が減少すると、有徳銭という名称で、彼らに課税した。有徳銭は、幕府の貴重な財源となり、初めは臨時の賦課であったものが、やがて恒久的な性格を帯びるようになった。
[清水久夫] 
鎮西探題
ちんぜいたんだい
モンゴル(元)襲来後、九州地方における御家人(ごけにん)の軍事統率と訴訟裁断を目的として、博多(はかた)に設置された鎌倉幕府の出先機関。設置された時期については、北条兼時(ほうじょうかねとき)・北条時家(ときいえ)が鎮西に下向した1293年(永仁1)3月とする説、金沢実政(かねさわさねまさ)が鎮西に下向した1296年9月とする説がある。実政は、それまで鎮西における訴訟の裁断を六波羅探題(ろくはらたんだい)が行っていたのにかわって、最終裁断権を行使し、「依仰下知如件」の書止め文言を有する裁許状を発給した。鎮西探題は北条氏一族1名が任命され、その下に鎮西有力御家人から任命された引付(ひきつけ)衆がおり、三番に分かれて問注(もんちゅう)を処理した。実政以後、北条政顕(まさあき)、北条随時(ゆきとき)、北条英時(ひでとき)が鎮西探題に就任した。1333年(元弘3・正慶2)5月25日、少弐(しょうに)・大友・島津氏など鎮西武士たちの襲撃を受けて、北条英時は博多姪浜(めいのはま)の館(たち)で自害し、鎮西探題は滅亡した。なお、鎮西探題は、鎌倉時代初期に設置された鎮西奉行(ぶぎょう)、室町幕府によって設けられた鎮西管領(かんれい)、九州探題とは区別して用いられる。
[瀬野精一郎] 

大野城
おおのじょう
福岡県大野城市、糟屋(かすや)郡宇美(うみ)町、太宰府(だざいふ)市の3市町にまたがる四王寺山(標高410メートル)に築かれた古代の山城(やまじろ)遺跡。663年(天智天皇2)に百済(くだら)救援を行った日本軍が白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)の連合軍に敗北を喫したのを契機に、665年百済系渡来人憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくぶ)らの指揮のもと基肄(きい)城とともに、大宰府防衛さらには全土防衛の最前線施設として築造された山城で、代表的な朝鮮式山城。城の規模は、中央に小盆地をもつ四王寺山の峰々を約6.5キロメートルに及ぶ土塁、石塁が巡り、さらに南側と北側には二重に土塁を巡らし、より堅固なものとしている。1973年(昭和48)以降の発掘調査によって、4か所の城門跡、1か所の水門跡のほかに倉庫と考えられる60余棟の建物跡が確認されている。建物は柱間(はしらま)3間(6.3メートル)×5間(10.5メートル)の規模のものが多く、尾花、八ツ波、主城原(しゅじょうばる)地区に集中している。当城は、奈良時代以降四天王を祀(まつ)り鎮護国家を祈る霊場となったが、876年(貞観18)の『類聚(るいじゅう)三代格』に大野城衛卒の粮米(ろうまい)を城庫に納めさせることがみえていることから、9世紀後半に至っても当城が維持されていたことがうかがえ、古代の山城のなかでもその機能が長く保たれていたことがわかる。1953年(昭和28)特別史跡に指定された。
[酒寄雅志] 

謝国明
しゃ-こくめい
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南宋(なんそう)(中国)の商人。
鎌倉時代に博多にすみ,玄界灘(なだ)の小呂島(おろしま)を拠点に南宋,朝鮮との貿易にたずさわる。仁治(にんじ)3年(1242)博多に承天(じょうてん)寺を建立し,円爾(えんに)をまねいて開山(かいさん)とした。臨安府(杭州市)出身。

緑釉
りょくゆう
陶磁器の緑色に呈発する釉薬。鉛を溶媒とし、呈色剤の銅の酸化によって緑色を呈し、その量で濃淡が生ずるが、これには低火度緑釉と高火度緑釉の2種がある。800℃内外で製される低火度緑釉は、中国では戦国時代(前4~前3世紀)に創始され、流行普及した漢代では瓦(かわら)や煉瓦(れんが)、明器(めいき)の陶俑(とうよう)・壺(こ)などが多数焼かれており、唐代には華麗な唐三彩にも用いられた。西アジアでは西暦前後にローマ帝国領内のシリア方面で焼かれており、また朝鮮半島では百済(くだら)、統一新羅(しらぎ)などに多くみられる。日本では正倉院宝物の奈良三彩(後8世紀ころ)に緑釉があるが、単彩ではもうすこし早い時期(7世紀ころ)に始められたと推測される。平安時代には平安緑釉として単彩で用いられたが、鎌倉時代以後はしばらくとだえ、桃山時代にふたたび交址(こうち)三彩の技術の導入により、楽焼・京焼を含む多彩な製品へと展開した。
 高火度の灰釉陶系の緑釉は、同じく銅を呈色剤として1250℃前後で製される。東洋ではベトナムで11世紀ころにこの釉法がくふうされ、日本ではまず美濃(みの)(岐阜県)の妙土(みょうど)窯が16世紀後半に試みており、17世紀初頭には美濃焼元屋敷窯の織部(おりべ)陶で大いに用いられた。
[矢部良明]

鴻臚館
こうろかん
日本の古代における外国使節の宿泊、接待などのための施設。外交上の要地である大宰府(だざいふ)、難波(なにわ)および都に置かれた。初め客館(むろつみ)といい、平安時代になると唐風に鴻臚館とも称されるようになった。平安京では朱雀大路(すざくおおじ)を挟んで、七条大路以北に各2町四方の敷地をもつ東西両鴻臚館が置かれた。また大宰府と難波の鴻臚館は、それぞれ現在の福岡市の旧福岡城内、大阪市の上町(うえまち)台地付近にあったと推測されている。なお、9世紀以降、外国使節の来日が少なくなると、大宰府の鴻臚館は来日する民間商人のための施設となり、難波では摂津国府に代用され、平安京の鴻臚館もしだいに荒廃していった。
[石井正敏]
博多
はかた
福岡市の那珂(なか)川右岸に位置する九州一の商業中心地区。1972年(昭和47)の政令指定都市発足により設けられた5区の一つでもある。古くは「那津(なのつ)」ともいわれたように『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』で知られる奴国(なこく)の港であったと考えられる歴史の古い場所で、律令(りつりょう)時代には大宰博多津(だざいはかたのつ)という大宰府の外港として栄え、遣隋使(けんずいし)、遣唐使もここから出発した。その後、刀伊(とい)、蒙古(もうこ)の来襲を受けたので鎮西(ちんぜい)探題が博多に置かれ、博多は大宰府にかわって九州の内政・外交の中心となった。15世紀に入ると大内氏が進出して対明(みん)貿易を推進したため貿易・商業地として発達、日本三津(しん)の一つに数えられるに至った。堺(さかい)と並んで自治権を有した博多商人の基礎が築かれたのはこのころである。その後、戦国時代の戦乱により焼け野原と化したが、1587年(天正15)九州入りした豊臣(とよとみ)秀吉により方10町の町割による博多の復興が着手され、現在の博多地区の原形が完成、ふたたび商人の町として発展を始めた。江戸時代には福岡藩の城下町である福岡と、那珂川を挟んで対峙(たいじ)したが、城下町に組み込まれることになった。
 明治に入って1872年(明治5)福岡が第一大区、博多は第二大区となったが、1878年に第一大区に合体され、1889年には福岡市となった。市名は福岡であるが、鉄道の駅、港、人形、織物、俄(にわか)、どんたくなど博多の名を冠したものが多く、市民に親しまれており、区名として残っている。現在の博多区は、博多5町を中心に問屋街が発達するとともに、博多駅が九州最大の駅として発展、周辺地区には官公庁や銀行、商社ビル、ホテルなどが建ち並んで天神地区とともに都心としての機能を備えてきた。北端には博多港の中枢である中央埠頭(ふとう)と、対馬(つしま)、壱岐(いき)、五島(ごとう)、沖縄などへの航路が発着する博多埠頭が、東端には福岡空港があり、福岡県における交通の拠点でもある。福岡空港と博多駅は市営地下鉄で結ばれている。また、埠頭近くにはマリンメッセ福岡、福岡国際センター、福岡国際会議場などが集まっている。北東端にある東公園には、1981年(昭和56)県庁と県警本部が移転し、県行政の中心として発展を始めている。一方、西端に位置する中洲(なかす)は全国的に知られる九州一の歓楽街で人出も多い。見どころとしては板付(いたづけ)遺跡(国史跡)に代表される弥生(やよい)遺跡や、住吉(すみよし)神社、櫛田(くしだ)神社、承天(じょうてん)寺、聖福(しょうふく)寺(境内は国史跡)、崇福(そうふく)寺、東長(とうちょう)寺、東光(とうこう)院など著名な社寺に富んでおり、どんたく、博多祇園山笠(ぎおんやまがさ)(国の重要無形民俗文化財)、おくんちなどの有名な年中行事とあわせ多数の観光客を集めている。
[石黒正紀]
藤原頼長
ふじわらのよりなが
[1120―1156]
平安後期の公卿(くぎょう)。宇治(うじ)左大臣、悪左府(あくさふ)などともいう。保安(ほうあん)元年5月、関白藤原忠実(ただざね)の第2子として生まれる。母は忠実の家司(けいし)藤原盛実(もりざね)の女(むすめ)で、いわば妾腹(しょうふく)の子である。1125年(天治2)異母兄の摂政忠通(せっしょうただみち)の子となり、30年(大治5)宮中に出仕して以来累進して、36年(保延2)には17歳で内大臣に上って世人を驚かせた。またそのころから異常な熱意を学問に注ぎ、「日本第一の大学生(だいがくしょう)、和漢の才に富む」(『愚管抄(ぐかんしょう)』)と評され、さらに政務にも励み、果断な実行力によって、政治の刷新と古儀の復興に実績をあげた。
 父忠実は摂関家の勢威の回復を頼長に期待し、頼長が左大臣に進んだ翌年の1150年(久安6)、摂政を頼長に譲るよう忠通に要求したが、拒絶されたため忠通を義絶するに至った。頼長は忠通にかわって氏長者(うじのちょうじゃ)となり、さらに翌年正月には内覧(ないらん)の宣旨を受けて執政の権を握った。しかし55年(久寿2)近衛(このえ)天皇の死去を機として、鳥羽(とば)法皇の信任を失って失脚し、さらに後白河(ごしらかわ)天皇の践祚(せんそ)により皇子の践祚の望みを絶たれた崇徳(すとく)上皇と手を結び、56年(保元1)7月法皇の没後まもなく兵をあげたが、あえなく敗死した(保元(ほうげん)の乱)。ときに37歳。のち朝廷は、その霊を慰め鎮めるため粟田宮(あわたのみや)を建て、崇徳上皇とともに祀(まつ)った。その日記『台記(たいき)』は、生彩に富んだ興味ある記述によって名高い。
[橋本義彦] 
日宋貿易
にっそうぼうえき
10世紀後半~13世紀後半の間、日本と中国の北宋(ほくそう)・南宋(なんそう)との間で行われた貿易。中国人の海外発展は7~8世紀ごろよりアラビア商人の活発な通商活動に刺激されて、広州(こうしゅう)を中心とする南海方面を舞台に始まった。9世紀中葉からは、南海貿易で得た東南アジアの特産品を日本へももたらす唐(とう)の海商が現れた。
 唐末五代の混乱期を経て宋朝の中国再統一がなると、治安の安定、国内諸産業の発展、南海貿易の復興などによって、宋海商の日本来航は唐代をはるかにしのぐようになった。宋海商らは、東シナ海のモンスーン・海流を熟知し、日宋間を片道5~7日で航海した。彼らは、5、6月の西南風に乗って来日し、翌年3、4月の東北風を利用して帰航するのが通例であった。
 前期(10世紀後半~12世紀前半)には、博多(はかた)を交易の場とし、大宰府(だざいふ)の統制の下に交易が行われた。宋海商が携帯する渡航証である「公凭(こうひょう)」(商人の身分、積載貨物の内容、来航目的などを記載。高麗(こうらい)・日本との貿易のために開港した明州の貿易監督機関である市舶司(しはくし)が発給した)を基に大宰府に派遣された朝廷の唐物(からもの)交易使が先買権を行使し、その後に一般の交易が許されるという形態をとった。のち、朝廷からの目録を基に大宰府官吏が先買権を行使するようになり、大宰府の貿易管理が強化されたため、これを嫌う宋海商らは不入権を獲得した権門寺社領の荘園(しょうえん)内の港湾に着岸して私貿易を行うようになった。このため、九州西岸を中心として博多から薩摩(さつま)に至る広い地域に交易の場は拡大し、貿易統制権をめぐって大宰府と荘園領主との訴訟が頻発した。
 後期(12世紀後半~13世紀後半)には、日本側に平氏政権が成立し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修築して宋商船を瀬戸内海へ引き入れて貿易を行うなど新たな局面が切り開かれた。続く鎌倉幕府も基本的に対宋貿易には積極的に関与し、鎌倉の外港和賀江(わかえ)(飯島津(いいじまのつ))、六浦(むつら)にも宋商船の来航があったようである。こうしたなかで、日本人で宋に渡航する者が輩出した。南宋に渡る日本船は、1年に40~50艘(そう)に及んだといわれる。北宋・南宋ともに一貫して対日貿易には積極的だったが、1127年以後、華北を支配する金(きん)と対抗する財源を貿易の利に求めたため、日本側の対外政策の積極化と相まって日宋貿易は空前の活況を呈した。
 日宋貿易を通じて、宋側からは「唐物」といわれる香料・陶磁器・書籍・南海産の鳥獣・医薬品・銅銭などが輸入され、日本からは刀剣・水銀・硫黄(いおう)・木材・砂金などが輸出された。とくに日宋貿易を通じて輸入された銅銭、最新の建築・土木技術、禅宗は日本の社会経済・文化の諸分野に多大な影響を与えた。
[横井成行] 

2016年1月17日日曜日

・伊藤 良夏(いとう よしか)大阪市議34歳 ファッションモデル 2010年、候補者公募 お咎め無し ・小林由佳(本名:西野由佳(37)) 堺市議 おはよう朝日ですのレポーター11年 3カ月の党員資格停止 黒瀬大議員(39)堺市議会議員 元小林の秘書 党除名 以下、東大阪市議の居住実態なし ・小畑治彦 ・森脇啓司 ・大坪和哉 伊藤 良夏(いとう よしか、1980年7月22日 - )は、日本の政治家、。大阪維新の会所属の大阪市会議員(2期)。 来歴[編集] 大阪府大阪市住吉区山之内元町生まれ。大阪市立依羅小学校、金蘭会中学校・高等学校卒業。高校在学中から服飾モデルの仕事を始める。高校卒業後、金蘭短期大学(現千里金蘭大学短期大学部)に入学し、2002年に卒業。その後モデル活動の拠点を東京に移し、首都圏を中心に企業広告やCM、ショーへの出演を行ったほか、ファッションブランドのオーディションで日本代表に選抜され、フランスのパリ市内でも活動していた。 モデル活動中は芸能事務所office48(2004年7月設立)に所属していたが、契約を解除し、帰阪。社会福祉主事任用資格を取得し、親族が経営する社会福祉法人の仕事を通じて、悪化の一途を辿っていた待機児童問題に直面した[1]。2009年、それまで中断していたモデル業を関西圏で再開したが、関西圏の有能な人材の首都圏への流出を目の当たりにし、関西圏の状況を憂えるようになった[2]。2010年、当時の大阪府知事・橋下徹が代表を務める大阪維新の会が実施した、大阪市会議員選挙の候補者公募に合格し、同年9月15日、大阪市住吉区選挙区(定数5)で同党から公認を受け、出馬する意向を表明した[3]。2011年4月10日投開票の大阪市会議員選挙では8,488票を獲得し、得票数4位で初当選した。2013年、大阪市立大学大学院創造都市研究科に入学[4]。 2015年の大阪市会議員選挙では大阪維新の会公認で住吉区選挙区から出馬。前回を上回る12,779票を獲得し、得票数3位で再選。なお同年より、モデル時代の所属事務所であったoffice48の関連会社であるフレイヴ エンターテインメントがマネジメントを担当している。 、1980年7月22日 - )は、日本の政治家、。大阪維新の会所属の大阪市会議員(2期)。 目次 [非表示] 1 来歴 2 政策・主張 3 不祥事 4 人物 5 出演 5.1 スチール 5.2 CM 5.3 ショー 6 脚注 7 外部リンク 来歴[編集] 大阪府大阪市住吉区山之内元町生まれ。大阪市立依羅小学校、金蘭会中学校・高等学校卒業。高校在学中から服飾モデルの仕事を始める。高校卒業後、金蘭短期大学(現千里金蘭大学短期大学部)に入学し、2002年に卒業。その後モデル活動の拠点を東京に移し、首都圏を中心に企業広告やCM、ショーへの出演を行ったほか、ファッションブランドのオーディションで日本代表に選抜され、フランスのパリ市内でも活動していた。 モデル活動中は芸能事務所office48(2004年7月設立)に所属していたが、契約を解除し、帰阪。社会福祉主事任用資格を取得し、親族が経営する社会福祉法人の仕事を通じて、悪化の一途を辿っていた待機児童問題に直面した[1]。2009年、それまで中断していたモデル業を関西圏で再開したが、関西圏の有能な人材の首都圏への流出を目の当たりにし、関西圏の状況を憂えるようになった[2]。2010年、当時の大阪府知事・橋下徹が代表を務める大阪維新の会が実施した、大阪市会議員選挙の候補者公募に合格し、同年9月15日、大阪市住吉区選挙区(定数5)で同党から公認を受け、出馬する意向を表明した[3]。2011年4月10日投開票の大阪市会議員選挙では8,488票を獲得し、得票数4位で初当選した。2013年、大阪市立大学大学院創造都市研究科に入学[4]。 2015年の大阪市会議員選挙では大阪維新の会公認で住吉区選挙区から出馬。前回を上回る12,779票を獲得し、得票数3位で再選。なお同年より、モデル時代の所属事務所であったoffice48の関連会社であるフレイヴ エンターテインメントがマネジメントを担当している。