摂関政治
せっかんせいじ
平安時代、藤原氏の嫡流が摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を独占し、天皇にかわって、あるいは天皇を補佐して行った政治。とくに967年(康保4)冷泉(れいぜい)天皇の践祚(せんそ)後まもなく藤原実頼(さねより)が関白となってから、1068年(治暦4)後三条(ごさんじょう)天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をさしていう。
[橋本義彦]
[橋本義彦]
成立
皇族が摂政となって政治を行った例は、推古(すいこ)天皇のときの聖徳太子や斉明(さいめい)朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)などにみられるが、臣下として摂政になったのは太政(だいじょう)大臣藤原良房(よしふさ)に始まり(866)、関白はその養嗣子(ようしし)基経(もとつね)に始まる(887)。律令(りつりょう)体制の成立と推進に中心的な役割を果たしてきた藤原氏は、平安時代初頭にはすでに「累代相い承(う)け摂政して絶えず」(日本紀略)との理由で、他氏に優越した地位を認められていたが、ついに人臣摂関の創始によって、政権独占の合法的な根拠を得たのである。
もっとも摂政も関白も初めから職名として固定したものではなく、ともに執政を意味する同義語で、令(りょう)文に抽象的な規定しかない太政大臣に執政としての職能を付与するのが、当初の摂関の詔(みことのり)の重要なねらいといわれる。また基経の死後、その子忠平(ただひら)が摂政となるまで40年近い空白があり、忠平の死後また約20年間摂関の任命がなく、摂関政治はまだ定着するに至らなかった。しかし967年村上(むらかみ)天皇が崩じ、病弱の冷泉天皇が即位して、忠平の子実頼が関白となってからは、天皇幼少の間は摂政を、成人ののちは関白を置くのが常態となり、摂関の地位、性格もしだいに固まり、さらに986年(寛和2)一条(いちじょう)天皇の摂政藤原兼家(かねいえ)が右大臣辞任後、太政大臣の上席たるべき詔を賜るに及んで、摂関の独自の地位が確立するに至った。
[橋本義彦]
もっとも摂政も関白も初めから職名として固定したものではなく、ともに執政を意味する同義語で、令(りょう)文に抽象的な規定しかない太政大臣に執政としての職能を付与するのが、当初の摂関の詔(みことのり)の重要なねらいといわれる。また基経の死後、その子忠平(ただひら)が摂政となるまで40年近い空白があり、忠平の死後また約20年間摂関の任命がなく、摂関政治はまだ定着するに至らなかった。しかし967年村上(むらかみ)天皇が崩じ、病弱の冷泉天皇が即位して、忠平の子実頼が関白となってからは、天皇幼少の間は摂政を、成人ののちは関白を置くのが常態となり、摂関の地位、性格もしだいに固まり、さらに986年(寛和2)一条(いちじょう)天皇の摂政藤原兼家(かねいえ)が右大臣辞任後、太政大臣の上席たるべき詔を賜るに及んで、摂関の独自の地位が確立するに至った。
[橋本義彦]
構造
平安後期の藤原頼長(よりなが)がその日記『台記(たいき)』に、「摂政はすなはち天子なり、関白は百官を己(おの)れにすぶるといへども、なほ臣の位に在り」と書いているのは、摂政と関白の制度上の差異を包括的に述べたものである。しかしそれも実際には形式的な面にとどまり、ことに摂関政治のうえでは、摂政も関白も国政の主導的地位にあったことに相違はない。そのうえ摂関は令(りょう)制官職機構を超越した独自の地位を廟堂(びょうどう)に占めた。たとえば摂政・関白の補任(ぶにん)は詔勅によるのを常とするが、その詔勅の効力は各天皇1代に限られ、新帝が引き続いて前朝の摂関を任用する場合には、改めてその意味の詔勅を下す必要があった。これは大臣以下の令制官職と大きく異なるところで、摂関が令制官職機構の枠を越えて、天皇個人に結び付き、それに密着した地位にあることを意味する。一面、摂関の地位の確立に伴い、藤原氏の氏人(うじびと)中官位第一の者がつくべき同氏長者(うじのちょうじゃ)も、摂関が兼帯するようになり、貴族社会に卓絶した勢力を誇る大藤原氏の氏人統率権をあわせもつに至った。
しかし摂関政治は、律令制にもともと持ち込まれていた貴族制的要素を押し広げる方向に作用したとはいえ、その政治は依然として律令制機構に立脚して行われ、別個の新しい行政機構や組織をつくりだしたわけではない。摂関家の政所(まんどころ)も、家政、氏政を執り行う機関で、その間接的に国政に及ぼした影響は軽視できないが、それが国政機関そのものに転化した徴候は認められない。また摂関政治のもとでは里内裏(さとだいり)が盛行し、里内裏すなわち摂関邸が政治の場となったという説もあるが、この時代ではまだ里内裏の設置は臨時かつ短期間にとどまり、またときには摂関がその邸宅を仮皇居に提供することはあっても、摂関はその間、他所に転居するのが例であるから、里内裏=摂関邸とするのは適切でなく、この面からも、いわゆる政所政治論は成り立たないであろう。
[橋本義彦]
しかし摂関政治は、律令制にもともと持ち込まれていた貴族制的要素を押し広げる方向に作用したとはいえ、その政治は依然として律令制機構に立脚して行われ、別個の新しい行政機構や組織をつくりだしたわけではない。摂関家の政所(まんどころ)も、家政、氏政を執り行う機関で、その間接的に国政に及ぼした影響は軽視できないが、それが国政機関そのものに転化した徴候は認められない。また摂関政治のもとでは里内裏(さとだいり)が盛行し、里内裏すなわち摂関邸が政治の場となったという説もあるが、この時代ではまだ里内裏の設置は臨時かつ短期間にとどまり、またときには摂関がその邸宅を仮皇居に提供することはあっても、摂関はその間、他所に転居するのが例であるから、里内裏=摂関邸とするのは適切でなく、この面からも、いわゆる政所政治論は成り立たないであろう。
[橋本義彦]
摂関と外戚
こうして摂政・関白は「一(いち)の人」として全廷臣の首位にたち、百官諸司を指揮して国政を領導したのであるが、この地位を根底で支えたのは天皇との外戚(がいせき)関係である。良房が人臣最初の摂政となったのも、良房が藤原氏で初めて在世中に天皇の外祖父の地位を得たことによるところが大きい。また摂関の座が藤原氏北家(ほっけ)のうち、とくに師輔(もろすけ)の九条流に帰したのも、師輔の娘である皇后安子と村上天皇との関係によるところが大きく、道長(みちなが)、頼通(よりみち)の摂関全盛期も、道長の築きあげた外戚体制の所産であることは周知のところである。
しかし、皇子の誕生とその即位という不確定な要素に依存するこの体制は、いったん運に見放されると、あえなく崩れ去る弱味を内包していた。頼通、教通(のりみち)らの念願もむなしく、その女子に皇子の出産をみることができず、ついに1068年には、外戚関係のない後三条(ごさんじょう)天皇が即位して、摂関の権勢は急速に後退し、院政の時代へと移っていった。そして院政のもとでは、摂関家と競合する外戚家が次々と現れたが、一面、摂関家は、外戚関係の有無にかかわらず、摂関を独占世襲する家柄として自己形成し、その限りでは摂関家の永続的安定をもたらしたのである。
[橋本義彦]
しかし、皇子の誕生とその即位という不確定な要素に依存するこの体制は、いったん運に見放されると、あえなく崩れ去る弱味を内包していた。頼通、教通(のりみち)らの念願もむなしく、その女子に皇子の出産をみることができず、ついに1068年には、外戚関係のない後三条(ごさんじょう)天皇が即位して、摂関の権勢は急速に後退し、院政の時代へと移っていった。そして院政のもとでは、摂関家と競合する外戚家が次々と現れたが、一面、摂関家は、外戚関係の有無にかかわらず、摂関を独占世襲する家柄として自己形成し、その限りでは摂関家の永続的安定をもたらしたのである。
[橋本義彦]
関白
かんぱく
天皇を補佐し、百官を率いて大政を執行する重職。中国前漢の博陸侯霍光(はくろくこうかくこう)が幼帝を補佐した故事により、博陸ともいう。百官の上奏に関(あずか)り、意見を白(もう)すという意味で、887年(仁和3)宇多(うだ)天皇が太政(だいじょう)大臣藤原基経(もとつね)に賜った勅書にこのことばが初めてみえ、しだいにその職名となった。冷泉(れいぜい)天皇(在位967~969)のころから、天皇幼少の間は摂政(せっしょう)を、成長後は関白を置くのが慣例となり、事実上朝廷最高の地位となって、「一(いち)の人(ひと)」ともよばれた。なお制度上は、摂政が天皇の代理人的立場にあるのに対し、関白は補佐の地位にとどまるが、政治上の実権にはほとんど差異を認められない。
摂関の職は藤原氏北家(ほっけ)に独占され、藤原氏長者(ちょうじゃ)を兼帯するのが常例となり、ことに藤原道長(みちなが)以後はその子孫に伝えられ、鎌倉時代以降は近衛(このえ)、九条(くじょう)、二条、一条、鷹司(たかつかさ)の五摂家が交互にこの地位についたが、幕末王政復古に際して廃止された。近世初頭豊臣秀吉(とよとみひでよし)・秀次(ひでつぐ)父子が関白になったのはまったくの異例である。なお、前関白を太閤(たいこう)といい、関白に准ずる地位に内覧(ないらん)がある。
[橋本義彦]
[橋本義彦]
摂政
せっしょう
天皇にかわって大政を摂行する重職。摂
(せつろく)、執柄(しっぺい)などともいう。記紀によれば、応神(おうじん)天皇のときの神功(じんぐう)皇后が初例といわれ、推古(すいこ)朝の聖徳太子をはじめ、古くは皇族がこれに任ぜられたが、866年(貞観8)清和(せいわ)天皇の外祖父太政大臣(だいじょうだいじん)藤原良房(よしふさ)が臣下として初めて摂政の詔(みことのり)を受け、さらに冷泉(れいぜい)天皇(在位967~969)のころから、天皇幼少の間は摂政を、成年後は関白を置くのが慣例となり、朝廷最高の地位として「一(いち)の人」ともよばれた。そして制度上は、関白が天皇の補佐としてなお臣下の地位にとどまったのに対し、摂政は天皇の代理者として、ほとんど天皇に等しいといわれ、詔書に画可(かくか)(本来は天皇が「可」の字を親署する)を加える権限などをもった。良房以降、摂政は藤原氏北家(ほっけ)に伝えられ、藤原氏長者(うじのちょうじゃ)を兼帯するのが例となり、さらに道長(みちなが)以後はその子孫に独占されて江戸時代末に及んだが、王政復古の発令に際して、関白とともに廃止された。
[橋本義彦]
(せつろく)、執柄(しっぺい)などともいう。記紀によれば、応神(おうじん)天皇のときの神功(じんぐう)皇后が初例といわれ、推古(すいこ)朝の聖徳太子をはじめ、古くは皇族がこれに任ぜられたが、866年(貞観8)清和(せいわ)天皇の外祖父太政大臣(だいじょうだいじん)藤原良房(よしふさ)が臣下として初めて摂政の詔(みことのり)を受け、さらに冷泉(れいぜい)天皇(在位967~969)のころから、天皇幼少の間は摂政を、成年後は関白を置くのが慣例となり、朝廷最高の地位として「一(いち)の人」ともよばれた。そして制度上は、関白が天皇の補佐としてなお臣下の地位にとどまったのに対し、摂政は天皇の代理者として、ほとんど天皇に等しいといわれ、詔書に画可(かくか)(本来は天皇が「可」の字を親署する)を加える権限などをもった。良房以降、摂政は藤原氏北家(ほっけ)に伝えられ、藤原氏長者(うじのちょうじゃ)を兼帯するのが例となり、さらに道長(みちなが)以後はその子孫に独占されて江戸時代末に及んだが、王政復古の発令に際して、関白とともに廃止された。[橋本義彦]
憲法上の摂政
1889年(明治22)の旧憲法(大日本帝国憲法)上、天皇の名において大権(たいけん)を行使する者を摂政といい(17条)、旧皇室典範では、天皇が未成年(18歳未満)もしくは心身上の重患等の際、皇族会議および枢密顧問の議を経て原則として成年の皇族が任ぜられることになっていた(19条以下)。1921年(大正10)大正天皇の重患により、皇太子裕仁(ひろひと)親王(のちの昭和天皇)が摂政に就任したのはこの制度によるものである。
日本国憲法上は、「摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ」(5条)にすぎない。現皇室典範によれば、摂政は、天皇が未成年(18歳未満)のとき、もしくは心身上の重患または重大な事故の存するとき皇室会議の議によって置かれ(16条)、その在任中訴追されない(21条)。成年に達した皇太子または皇太孫を第一位とする皇族の摂政就任順位が定められている(17条)。
[畑 安次]
日本国憲法上は、「摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ」(5条)にすぎない。現皇室典範によれば、摂政は、天皇が未成年(18歳未満)のとき、もしくは心身上の重患または重大な事故の存するとき皇室会議の議によって置かれ(16条)、その在任中訴追されない(21条)。成年に達した皇太子または皇太孫を第一位とする皇族の摂政就任順位が定められている(17条)。
[畑 安次]
太政官
だいじょうかん
律令(りつりょう)官制における中央・地方行政の最高機関。和訓ではオオイマツリゴトノツカサといい、日本独自の官制。しかしそのモデルは唐の最高の行政官庁である尚書省の都省であったため、尚書省・都省・鸞台(らんだい)ともいう。藤原仲麻呂(なかまろ)が官名を唐風に改めたときには乾政(けんせい)官と称した。官制上は神祇(じんぎ)をつかさどる神祇官に対し、行政全般をつかさどるのを任務としたが、実際には神祇官をも統轄下に置いていた。その範疇(はんちゅう)は、狭義には大臣から大納言(だいなごん)(のち令外官(りょうげのかん)である中納言・参議を含む)の議政官をさす例から、広義には八省を含む行政官全体を示す場合まで多様である。しかしその基本は、議政官組織とその秘書、事務局である少納言局、および行政実務の執行機関ともいうべき左右弁官局の3部局から成立しているとみるべきである。その成立時期はさだかではないが、浄御原(きよみはら)令制下にも存在したが大宝(たいほう)令制のそれとは異質であり、官制としては大宝律令で確立した。
議政官は天皇の諮問に答え、勅や審議決定事項を弁官を通して、太政官符などを通じて執行させた。議政官は令前の大夫(まえつぎみ)制の伝統を引き継いだ有力氏族の代表者たちであり、その合議によって政務は進められたが、基本的には天皇権力を前提にその政治を補完する性格のものであった。9世紀初めに蔵人所(くろうどどころ)が成立してのち、徐々に形式化するが、平安時代でも、陣定(じんのさだめ)(仗議(じょうぎ)ともいい公卿(くぎょう)会議)で各種の政務が審議され、少納言局の政務を引き継いだ外記政(げきせい)や弁官局の政務を引き継いだ官政(かんせい)などでは中納言以上が上卿(しょうけい)として出席するなど、形式は変わるが太政官の機能は生き続けた。武家政権下では公家(くげ)の政務が形式化するに伴い、太政官も形骸(けいがい)化したが幕末まで続き、明治政府の太政官(だじょうかん)制に及んだ。
[佐藤宗諄]
議政官は天皇の諮問に答え、勅や審議決定事項を弁官を通して、太政官符などを通じて執行させた。議政官は令前の大夫(まえつぎみ)制の伝統を引き継いだ有力氏族の代表者たちであり、その合議によって政務は進められたが、基本的には天皇権力を前提にその政治を補完する性格のものであった。9世紀初めに蔵人所(くろうどどころ)が成立してのち、徐々に形式化するが、平安時代でも、陣定(じんのさだめ)(仗議(じょうぎ)ともいい公卿(くぎょう)会議)で各種の政務が審議され、少納言局の政務を引き継いだ外記政(げきせい)や弁官局の政務を引き継いだ官政(かんせい)などでは中納言以上が上卿(しょうけい)として出席するなど、形式は変わるが太政官の機能は生き続けた。武家政権下では公家(くげ)の政務が形式化するに伴い、太政官も形骸(けいがい)化したが幕末まで続き、明治政府の太政官(だじょうかん)制に及んだ。
[佐藤宗諄]
公卿
くぎょう
中国周(しゅう)の官、三公九卿(さんこうきゅうけい)に由来する名辞。上達部(かんだちめ)、卿相(けいしょう)、月卿(げっけい)、棘路(きょくろ)(おどろのみち)ともいう。一般に三公(太師(たいし)、太傅(たいふ)、太保(たいほ))は太政(だいじょう)大臣、左大臣、右大臣に、九卿(少師、少傅、少保、冢宰(ちょうさい)、司徒(しと)、宗伯(そうはく)、司馬(しば)、司寇(しこう)、司空(しくう))は参議、三位(さんみ)以上の高官にあてた。令(りょう)制では官職は大臣、大納言(だいなごん)、位階は従(じゅ)三位以上をさすが、のちには令外(りょうげ)の摂政(せっしょう)、関白、内大臣、中納言、参議をも含み、四位の参議もまたこれに入る。公卿には現任と散位(さんに)との別がある。『公卿補任(ぶにん)』によれば、散位のうち一度でも参議以上になったことのある官人は、前(さきの)大納言、前参議などと書いているが、位は従三位以上でも、参議にもならない官人の場合は、非参議と表現している。758年(天平宝字2)太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫(ぎょしたいふ)と改称したが、藤原仲麻呂(なかまろ)没後の764年に至り、それぞれ旧号に復した。
[渡辺直彦]
太政大臣
だいじょうだいじん
太政官の最高の官職で、日本独自の官。和訓ではオオマツリゴトノオオマエツギミといい、唐名では(大)相国(しょうこく)。令(りょう)では唐の三師(太師、太傅(たいふ)、太保)、三公(太尉(たいい)、司徒、司空)を兼ねる重職とされ、適任者のない場合には欠員とされ、「則闕(そっけつ)の官」といわれた。令文には「天子の道徳の師、四海の民の規範」などと記され具体的な職務が明記されておらず、「非分掌の職」と理解された。その初見は『日本書紀』天智(てんじ)天皇10年(671)正月条で、大友皇子が任ぜられたことがみえるが、これは「百揆(ひゃっき)を統(す)べ、万機を親くす」る、いわゆる摂政(せっしょう)に比すべき地位で、皇位継承予定者の地位をも示し、令制のそれとは大きく異なる。奈良時代には一時期太師(たいし)と改称されたり、藤原仲麻呂(なかまろ)や道鏡がこれに任ぜられたが、一般には名誉的な色彩が濃く、死後に与えられる贈官が原則であった。しかし857年(天安1)2月に藤原良房(よしふさ)が任ぜられた例は、実質上は摂政ともいうべき地位であり、令前の観念が生き続けていたらしい。藤原基経(もとつね)の太政大臣任命に関連して884年(元慶8)5月に諸道博士らに諮問されたが、特筆すべき職掌のない「非分掌の職」という理解が多かった。したがって以降、関白・摂政・内覧などの宣旨を別に受けない限り、太政大臣そのものは名誉職的な官職として生き続け、幕末に至った。維新期には1871年(明治4)に復活し、85年まで存続した。
[佐藤宗諄]
左大臣
さだいじん
(1)令制(りょうせい)太政官(だいじょうかん)の官職で、実質上の長官。右大臣とともに衆務を統理した。三公の一つ。定員は1名で、二位相当官。職田(しきでん)30町、食封(じきふ)2000戸、資人(しじん)200人が給された。その初見は『日本書紀』によれば645年(大化1)に任ぜられた阿倍内麻呂(あべのうちまろ)であり、671年(天智天皇10)には太政大臣など三大臣がそろって任命されたが、制度的に確立したのは701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)によってであろう。官名は、唐の尚書省の左僕射(さぼくや)を倣って、それまでの大臣を左右に分けたことに由来するといわれるが、さだかではない。758~764年(天平宝字2~8)の間は大傅(たいふ)と称された。平安時代にも形式化した太政大臣に比して朝廷政務の責任者としての地位を保持し一上(いちのかみ)とよばれた。その後、武家政権下では名誉的存在であったが、1868年(明治1)に太政官制の廃止とともに廃された。
(2)明治初期の官職。1869年(明治2)7月の官制改革(二官六省)により再置され、71年8月三院八省制のもとでは正院(せいいん)を構成したが、85年に内閣制度が実施されて廃止された。
[佐藤宗諄]
(2)明治初期の官職。1869年(明治2)7月の官制改革(二官六省)により再置され、71年8月三院八省制のもとでは正院(せいいん)を構成したが、85年に内閣制度が実施されて廃止された。
[佐藤宗諄]
右大臣
うだいじん
(1)令(りょう)制の官職。太政(だいじょう)大臣、左(さ)大臣とともに太政官の中枢を構成。地位は左大臣に次ぐが、その職掌、官位相当とも左大臣と同じで、衆務を統理し、綱目を挙(あ)げ持(と)り、庶事を惣判(そうはん)することを任務とし、二品(にほん)、二位相当官である。『日本書紀』によれば、大化改新での新人事で、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が任ぜられたのが初見である。天智(てんじ)朝には官制として成立していたらしいが、大宝(たいほう)令制との異同は不詳。唐名の大保(たいほ)に比するのが一般的であるが、この官職名は日本独自のもので、その由来については前代の大臣(おおおみ)に関連するとの見方もあるが確証はない。奈良時代には太政官最高位に位置することも多かったが、平安時代に入るとその地位は名目化した。
(2)明治初期の官制。1869年(明治2)、版籍奉還後の太政(だじょう)官制の改革により、左大臣とともに天皇を輔佐(ほさ)する最高官として設けられ、三条実美(さねとみ)が任ぜられた。71年、廃藩置県後の改革で一時廃官されたが、直後に再置され、太政大臣の下に置かれて、左大臣、参議とともに正院を構成し、岩倉具視(ともみ)が任ぜられた。85年内閣制度が成立し、廃された。
[佐藤宗諄]
大納言
だいなごん
令(りょう)制官職の一つ。太政官(だいじょうかん)の次官(すけ)。和名では「おおいものもうすつかさ」と読み、唐名は亜相(あしょう)、門下侍中(もんかじちゅう)、黄門監(こうもんげん)という。定員は4人で、相当位は正三位。その職務は、大臣とともに国政を参議し、天皇に近侍して政務について奏上し、勅命を宣下する要職である。この職は唐では門下侍中の役にあたる。侍中は門下省の長官で、尚書(しょうしょ)省の尚書令(れい)、中書省の中書令と同格であるが、わが国で唐制を採用する際、尚書省に相当する太政官の次官に格下げした。705年(慶雲2)定員2人を減じて、かわりに中納言3人を置いた。その後758年(天平宝字2)官名を御史大夫(ぎょしたいふ)と改めたが、藤原仲麻呂(なかまろ)没後の764年旧に復した。
明治政府は、1869年(明治2)太政官(だじょうかん)制の官職として左右大臣、参議とともにこれを再置したが、71年廃止した。
[渡辺直彦]
[渡辺直彦]
中納言
ちゅうなごん
令外官(りょうげのかん)の一つ。和名では「なかのものもうすつかさ」と読み、唐名では黄門(こうもん)、門下侍郎(もんかじろう)にあてる。『日本書紀』によれば、692年(持統天皇6)に中納言三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)の名がみえ、すでに浄御原(きよみはら)令制下に置かれていたことが知れるが、701年(大宝1)の大宝(たいほう)令施行当日この官を廃止した。705年(慶雲2)大納言2人を減じ、かわりに中納言粟田真人(あわたのまひと)、高向麻呂(たかむくのまろ)、阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)の3人を任じた。その職務は大納言に近く、政務の奏上、勅命の宣下に従事し、朝議にも参与した。また令外官のため相当位はなかったが、このとき正四位上とし、別に封200戸、資人(しじん)30人を支給され、761年(天平宝字5)には従三位(じゅさんみ)相当となった。
[渡辺直彦]
少納言
しょうなごん
令制(りょうせい)官職の一つ。「すないものもうし」とも読む。太政官(だいじょうかん)の少納言局に属し、駅鈴、内印(天皇御璽(ぎょじ)の印)、伝符(でんぷ)(郡馬を徴発する符)、飛駅(ひえき)の函鈴(かんれい)(急を要する場合)を取り扱い、また外印(げいん)(太政官印)を押すときに監督する。定員は3人で、いずれも侍従(じじゅう)を兼ね、地位は低いが重要な職であった。808年(大同3)定員外に1人増加、翌年また1人を追加したが、813年(弘仁4)定員の3人に戻した。
[渡辺直彦]
[渡辺直彦]
蔵人所
くろうどどころ
令外官司(りょうげのかんし)の一つ。天皇の家政機関。810年(弘仁1)嵯峨(さが)天皇は初めて殿上(てんじょう)の侍臣を蔵人所に置き、機密の文書などをつかさどらせた。蔵人所の新設は薬子(くすこ)の変と関係があり、平城(へいぜい)上皇方に機密が漏れるのを防ぐため、腹心の藤原冬嗣(ふゆつぐ)、巨勢野足(こせののたり)らを蔵人頭(くろうどのとう)に任命したといわれる。以後、もっぱら天皇に近侍して、詔勅を諸司に伝達し、令制(りょうせい)の内侍(ないし)、中務(なかつかさ)、少納言(しょうなごん)、侍従などの職務にも関与し、殿上の諸事を切り回すようになった。その職員には別当1人、頭2人、蔵人8人、非蔵人4~6人、雑色(ぞうしき)8人、所衆(ところのしゅう)20人、出納(すいのう)3人、小舎人(こどねり)6~12人、滝口(たきぐち)10~30人、鷹飼(たかがい)10人などがある。別当は897年(寛平9)に大納言(だいなごん)藤原時平(ときひら)がなったのが初見。当初は中納言以上の公卿(くぎょう)が任命されているが、のちには一の上(かみ)がなるのが一般である。頭は殿上の諸事を切り回す事実上の担い手で、四位の殿上人をもって任命した。弁官より選ばれたものを頭弁(とうのべん)、近衛次将(このえのじしょう)から選ばれたものを頭中将(とうのちゅうじょう)という。頭は劇務であったが、参議への昇進も早かった。蔵人は888年(仁和4)位階によって分け、五位蔵人2人、六位蔵人6人とした。平安後期には五位3人、六位5人となる。非蔵人は蔵人の事務見習いのようなもの。雑色は非蔵人とともに六位蔵人に進む。所衆は殿上の雑事に従事し、また雑色、小舎人らとともに諸使を勤める。出納は蔵人所から発給する牒(ちょう)、下文(くだしぶみ)などの文書を作成し、署名する。滝口は主として内裏の警護にあたる。
[渡辺直彦]
[渡辺直彦]
蔵人所
くろうどどころ
令外官司(りょうげのかんし)の一つ。天皇の家政機関。810年(弘仁1)嵯峨(さが)天皇は初めて殿上(てんじょう)の侍臣を蔵人所に置き、機密の文書などをつかさどらせた。蔵人所の新設は薬子(くすこ)の変と関係があり、平城(へいぜい)上皇方に機密が漏れるのを防ぐため、腹心の藤原冬嗣(ふゆつぐ)、巨勢野足(こせののたり)らを蔵人頭(くろうどのとう)に任命したといわれる。以後、もっぱら天皇に近侍して、詔勅を諸司に伝達し、令制(りょうせい)の内侍(ないし)、中務(なかつかさ)、少納言(しょうなごん)、侍従などの職務にも関与し、殿上の諸事を切り回すようになった。その職員には別当1人、頭2人、蔵人8人、非蔵人4~6人、雑色(ぞうしき)8人、所衆(ところのしゅう)20人、出納(すいのう)3人、小舎人(こどねり)6~12人、滝口(たきぐち)10~30人、鷹飼(たかがい)10人などがある。別当は897年(寛平9)に大納言(だいなごん)藤原時平(ときひら)がなったのが初見。当初は中納言以上の公卿(くぎょう)が任命されているが、のちには一の上(かみ)がなるのが一般である。頭は殿上の諸事を切り回す事実上の担い手で、四位の殿上人をもって任命した。弁官より選ばれたものを頭弁(とうのべん)、近衛次将(このえのじしょう)から選ばれたものを頭中将(とうのちゅうじょう)という。頭は劇務であったが、参議への昇進も早かった。蔵人は888年(仁和4)位階によって分け、五位蔵人2人、六位蔵人6人とした。平安後期には五位3人、六位5人となる。非蔵人は蔵人の事務見習いのようなもの。雑色は非蔵人とともに六位蔵人に進む。所衆は殿上の雑事に従事し、また雑色、小舎人らとともに諸使を勤める。出納は蔵人所から発給する牒(ちょう)、下文(くだしぶみ)などの文書を作成し、署名する。滝口は主として内裏の警護にあたる。
[渡辺直彦]
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義梵(せんがいぎぼん)(1750―1837)はこの寺で生涯を過ごした。現在は妙心寺派の専門道場となっている。寺宝に中国禅僧大鑑禅師画像、高峰断崖中峰和尚(こうぼうだんがいちゅうぼうおしょう)像、銅鐘(朝鮮鐘)などの国重要文化財のほか、多くの文化財がある。